蝶
12月19日の朝日の天声人語に次のような文章が出た。
「先ごろの本紙で、チョウの写真に目を奪われた。岐阜県で捕獲され、目印をつけて放たれたものが、40日後に奄美大島で確認されたという。千キロを超す旅の果て、美しい羽はすり切れ、破れ団扇(うちわ)のようだ▼このアサギマダラは春には北へ、秋には南に下る「渡り」で知られる。夏の高原ではふわふわと、あまり羽ばたかずに舞う。ところが、いざ渡りとなるとギアが入り直すらしい。移動は片道切符で、旅先で生まれた子孫が逆コースをたどる。日本―台湾の2千キロを飛ぶことも珍しくない▼渡る理由は諸説あるが、かれんな姿からは信じられないたくましさだ。翻って、私たちの力はどうにも情けない。飛べず、ろくに泳げず、敏捷(びんしょう)性や走力は霊長類でも並以下だろう・・・」
あの小さな蝶が千キロを旅するのだから、私のアイルランドど700キロの旅なんて、お話にならないくらいささやかな試みなのである。
何千キロも旅する渡り鳥、回遊魚・・・人の営みなんて大したことはない。
鳥も魚も蝶もその目的を知らない。人間だって目的がなく動き回っているのだ。
蝶といえば荘周胡蝶の夢、
昔者、荘周夢に胡蝶と為る。
栩栩然として胡蝶なり。
自ら喩しみ志に適へるかな。
周なるを知らざるなり。
#44


ふしぎですね。自分の力で移動するということは、それ自体目的たりうる何かを秘めているようで。
巡礼の旅しかり。アスリートの長距離走しかり。
遠足は、ただバスで転々としてお弁当を食べるだけではダメですね。大晦日のお参りも交通機関で山頂に行ったりしたら、過程もたどり着いたときも全く別物になりますね。
これまで、車窓の景色と、自転車から見えるものと、歩くときに気づくものが全然違う、ということは意識していました。ですが、歩くという行為自体が本質的に持っていそうな何かについては、考えたことがありませんでした。
投稿: 京のKT | 2008年12月24日 (水) 23時39分